2026/06/04-2026/06/12

怒涛の5月が終わって、いつの間にか6月になった。少し休憩を入れようと思って一度作り上げた集中の習慣を手放した途端に怠惰な自分が顔を出す。他のだれかにとってはそうでもないことかもしれないけど、わたしにとっては4月、5月の日々のルーティンはなかなか継続するのにエネルギーが必要なことで、これがずーっと続くとしたらどこかで壊れるだろうなと思っていた。期間を決めていたからできたことでもある。ちょうど今日は次の審査の日のお知らせを受けた。また一つ期日ができた。そこまでまた頭をこねくり回して、どうにかこうにか間に合わせなければ。締め切りは大嫌いだし、胃がいつもキリキリしてしまうんだけど、いくらでも怠けられる人間なので締め切りがなければ何も動かないということもわかっている。

昨日はある人の文章を読んで、ひさしぶりに津久井やまゆり園の事件のことを思い出していた。ちょうど同時期に似たような感触を持って受け止めていた人が目の前にいる、そういう心強さがあった。あの当時、ニュースを追いながらいくつかの本も読みながらずっと考えていた。いまはアーカイブに入れてしまったけど、その当時読んでいた一冊に『この国の不寛容の果てに』があり、その感想をInstagramに投稿していたなと思って読み直していた。感想といっても、本の内容にはあまり触れられていなくて(今もぼんやりとしか覚えていない)、どちらかというと読みながら考えていたことが書いてあった。一部の人は加害者を「異常者」として、自分とは完全に切り離して受け止めていたけど、わたしにとってあの事件が衝撃的だったのは、敢えて「異常」という言葉を使うならば、あの人の「異常さ」はこの社会のそこかしこに根強く存在していることを突きつけられたからだった。生きる価値のある人間か、役にたつ人間か、生産性のある人間か。自分自身もそのような物差しでまなざされていると感じることが頻繁にあるし、自分がその物差しでもって他者を絶対にまなざしていないと言い切れるかというと正直歯切れが悪い。そうしたくないと思って、学ぶことや想像力を鍛えることを怠らないようにと意識はしているものの、そんなに善良な人間ではないという自覚はある。何よりも自分自身に向けて気軽に生きる意味ないなとか価値ないなとよく思う。でもそういう思考のあり方って個人の意思でどうにかできるような簡単なものではなく、この社会に根強く息づいているからこそ誰もがどこか優生思想じみた感覚を少なからず持っているのだと思う。あの当時でさえそう思っていたけれど、最近の日本社会はより一層シビアなものになっていると思うし、誰かを「悪人」として他者化し、気楽に「生きる意味ない」と烙印を押すことに慣れ過ぎているような気がする。そして間違いなく現政権はそれを制度としても(独裁的に)推し進めていると思うし、それによってさらに多くの人が気軽に他者の尊厳を、生を踏み躙るようになったと感じている。どうしたらいいんだろうね。本当に。

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去年、今年に個人でzineを制作・寄稿した。自分と自分の血縁に基づいた家族の話。ポッドキャストでも触れたことがあるし、もしかしたらzineを読んでくれた人もいるかもしれないけど、わたしにとって一番大きな悩みかつ最も自分に影響を残し続けている種が家族、特に父との関係だった。言葉にして、自分の外に出すという行為は当時の自分にとってものすごく切実なことであったし、書くことは生き延びるためにこそ必要な行為だった。今はすでに出したもの以上に公の場で書きたいこともないし、感情面で割り切ることが(ある程度)できているから余計にそう思うのかもしれないが、あのように書き記すことは本当に「正しい」行いだったんだろうかと考えることがある。

あのときのモチベーションとしては、何よりも自分のために書いたのであったし、たとえば『傷の声』や『宇宙人の部屋』を読んで自分の仲間を見つけたかのような感覚にほんのちょっと救われたように、だれかにとって何かポジティブな影響を与えることができるのではないかというものだった(烏滸がましいかもしれないけれど)。そういう感情や感覚が嘘だとはやはり今も思わないけれど、どうにもそれだけでは片付かないような感情がある。と考えだしたのは、SNSで話題になっていた吉本ばななのnoteを読んだのがきっかけだった。

前提としてわたしは吉本ばななに何ら特別な感情を持っておらず、吉本隆明の実子として、また著名な文筆家として名前を知っているくらいで、エッセイはおろか小説も短編を(課題図書として)一編読んだだけの人間である(その一編読了後も他作品を読まなかったのは、その短編自体にうーーんと首を傾げてしまうような箇所があったからだった。友人たちの話を聞いていると、もしかしたら気に入る作品もあったのかもしれないなあなんて思うけれど)。noteを読んだのは、それがどうやら家族の話、しかもいわゆる「毒親」(わたしはあまりこの言い方を好まない)の話や共依存の話だということから、ちょっぴりシンパシーを感じてしまい、完全なる好奇心で購入した。有料記事なので内容には深く触れないが、もしこれから読む人がいたら、これは間違いなくトリガーウォーニングが本来つけられるべき内容だということだけは声を大にして言いたい。家族関係においてトラウマを抱えている人は読まない方がいいというポストを見て、まあそれもあるかもしれないが、それ以上に差別的な表現が多分に含まれている。差別的だし、端的に失礼だろとも思った。

他方でやはり文章で飯を食ってきた人であるだけに、すいすいと読めてしまう文章としてのうまさはあるなと思った。読んでいて意味が汲み取りにくいところは個人的にはなかった。そして、わたしが経験した家族の歪さとはまた違った過酷な歪さと向き合わざるを得なかった人でもあったんだなと思った。だけど、当たり前っちゃ当たり前だけど吉本ばななの視点からしか描かれない現実をそのまま受け取ってしまうことの危険性も感じた。そしてそれはわたし自身が書いたzineにも言えることだ。わたしが書いたわたしから見える真実という点で嘘は一つもないし、起きた事象にも間違いはないが、父には父の現実が、母には母の現実が、兄には兄の現実が、そして人間の言葉で表現してもらうわけにはいかないが、犬と猫には犬と猫なりの現実があったはずだ。わたしがどれだけ言葉を尽くしてもそれはわたしの視点を免れることは決してないわけで、それを公に出すということの意味を改めて考えている。敢えていうならば、わたしはわたしが自覚している「被害」の部分をかいつまんで記しているわけで、親子は絶対に対等な関係にはなりえないが、それでもわたしだって父母を傷つけたことだってあっただろう。抑圧的な状況に置かれたには違いないが、わたしはわたしの「被害」を振りかざしていないだろうか。親の責任までを自分の過失だなんて思わないが、一方で「被害」に固執していないか、それをすべての元凶にしすぎていないか、「不遇」な側面のあった自分を可哀想に思いすぎていないか、ときどき不安になる。幼い頃を思い出してみれば、「不遇」な側面もたくさんあったとは思うが、一方でこの社会で見た今の自分の立場性はどう考えても多くの特権を享受している。前者ばかりを主張することが、自らの特権を当然視することに繋がっているような感覚もある。なかなか今の時点でこれといった結論があるわけではないが、最近はそんなようなことを考えていて、いまはこれ以上家族との関係について不特定多数に言いたいことはないなと思っている。いま持ち得た自分の力は、自分のためというよりも、似たような状況に置かれた経験のある人や、助けを必要とする人、力を奪われ続けている人のためにこそ使われるべきだなと思う。こういう考え方もいきすぎると自分の首を絞め始めるので(経験済み)、何事もバランスと適度な休息を挟むことが重要だけどね。


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  • モクモクれん『光が死んだ夏』9

  • 泥ノ田犬彦『君と宇宙を歩くために』6

  • 高松美咲『スキップとローファー』13

  • 新城郁夫『沖縄の傷という回路』

  • スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い・エイズとその隠喩』(currently reading)

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  • 桃山商事 - Ep.132 親ガチャ兄妹ガチャ大成功だったので居心地が悪い/Ep.133 悪口なしでは生きていけない/Ep.135 グループLINEから急に退出した人の話

  • からだのシューレ - #051 からだのシューレを始めて10年 簡単に言いたくなくなった「社会が悪い」

  • 私より先に丁寧に暮らすな - #208 性加害事件にやたら中立でありたい恋人に悩む人の話

  • はらっぱラジオ - vol.45〜『違国日記』完結!!〜

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