年末に犬(実家住み)の病気が判明した。しかも結構進行しているようで、獣医師からは「今ももうすごくがんばってくれていますね」と言われた。わたしは普段500km以上も離れた土地で暮らしているため、秋頃からはすでに痩せが気になっていたけれど、仕事に家事にてんてこ舞いな母に早く病院に連れて行ってあげて、とはなかなか言えずにいた。中大型犬で力も強く車も苦手なため、一人で病院に連れていくのはなかなか大変だからというのもあった。そして年末年始のわたしが帰省するタイミングで二人で病院に連れて行ったところ、病気がわかったというわけだ。
正直なところ、病気に対して直接治療できることはあまりなく、唯一できるのは食事を療法食に変えることと、主疾患から併発した高血圧に対し降圧剤を服用させることだけだった。療法食を何種類か取り揃え、それまで大好きだったおやつは封印した。しかし、病気判明以前までは野菜以外はなんでも際限なく食べるほどの食いしん坊犬だったのに、それが嘘のように食べなくなった。どんな種類の、どんな高価な療法食も食べなかった。また、痩せて筋力や体力が落ちたこと、そしてそもそも病気で倦怠感があるのか、散歩も今までは1時間以上行くのが当たり前だったのに、今冬は短い時は5分、長くても20分程度に落ちてしまった。食べることと散歩することが日々の大きな楽しみだった犬は、どんどん痩せていき、肋骨や腰骨が浮き出て、目にも輝きがなくなった。病気は可能な限り進行を遅らせたい、でも楽しみなく生きるために寿命を伸ばそうと努めることに、本当に意味はあるのか。
散々悩み、母とも相談を重ね、わたしたちは療法食をあげることをやめた。あげても毎食ほぼ手をつけず、結局何も食べていないに近い日がつづいたから。過剰摂取を避けたい栄養素はあるけれど、まずは何でもいいから食べてほしかった。これで病気がさらに進行したとしても、今のままでは栄養失調で弱っていくのが目に見えていたし、どうせ弱るしかないのであれば、「おいしい」「たのしい」「うれしい」という感情でいっぱいな日々にしてあげたいと思った。結果的に犬は、以前と比べると好きなものの範囲がぐっと狭まった(病気の影響?)し、もともと感情が体調に影響しやすいタイプなこともあり、気分が乗らない時はやっぱり食べないけど、療法食を中心にあげていたときに比べると食事量が増え、骨の浮き出具合もいくらかマシになってきた。食べ物に対して目を輝かせて喜ぶことも増えてきた。
他方、散歩のほうはやはり以前のように、とはいかない。元来繊細な犬ではあったが、病気になってから今まで懐いていた人に対しても壁を作ったり、ハーネスを持って近づくと逃げることが増えてきた。昔から人の考えることの斜め上を考えているような犬で、なぜこれがこんなにもダメなんだろう?なぜこんなにも気にしてるんだろう?と、行動の理由がわからないことが多かった。先代犬たちとはまるっきり異なる犬だった。
犬は生後3ヶ月くらいのときに保護施設から里親として引き取った犬だった。その保護施設に来る前は保健所にいたということまでは知っている。今思えば、保健所にいたとき、あるいはその前に何かトラウマになるような出来事があったのかもしれないし、犬の性格を思えば、多種多様な犬と猫が常にいる保護施設での生活もなかなかにストレスフルだったのかもしれない。幼い頃の何かしらの経験が犬の根本的な性格に影響している可能性はある。とはいえ今現在、今まで大好きだった人たちにまで疑いの目を向けている理由は、依然としてわからない。毎日世話をしてくれていた母にさえ純粋な喜びを向けることは稀になり、散歩も気乗りしないものになってしまった。しかしどういうわけか、唯一わたしには変わらず心を開き、「散歩に行こう」と話しかけると目に光が灯り、庭中をかけまわる喜びの舞を見せてくれる。以前ほどではないが、それでもわたしが行く散歩のときだけは平均して30分程度、たまに40分から50分、ごく稀に1時間以上歩いてくれる。昔のようにスタスタ歩くわけではないけど、それでも楽しそうにトコトコ歩いている。
だが帰省を終え、一旦わたしが自宅に戻った際に電話で母に犬の様子を聞いてみると「また散歩ボイコットしてる。生きる意味がないって顔になっちゃってる」と。母もできる限りの世話をしてくれているが、仕事の拘束時間が長い母はどうしてもわたしと比べると接する時間が短い。くわえて、実家には犬の他に猫が2匹おり、うち1匹は実は犬よりも前、初夏の頃に犬と同じ病気だと診断されている。ただ猫の場合には決して珍しくない病気のため、定期的な検査と点滴、食事療法(やはり猫も療法食は食べないが、ケアを謳っている食事をとりあえずは食べてくれている)をしながら様子をみている。もう1匹だけは元気に飛び回っているが、母は3匹の世話をしながら仕事や家事をしているため、正直なところキャパオーバー気味だ。

そんなこんなで、わたしは犬を含めた3匹との限られた時間をどうしたいか考え始めた。わたしにとって3匹はほかの何よりも大事で、自分の人生に到来した最大の祝福だと思っている。だから本当は自分の寿命を分け与えられるなら大盤振舞したいくらいにはまだまだずっと生きていてほしいけど、3匹ともそろそろ寿命だと言われても不思議でないくらいの年齢ではある。今年はわたしにとっても一つの節目となる予定の年で、それに伴いさまざまな選択と大量の「やるべきこと」に飲み込まれつつある。だからこそ自分のためだけを思うなら、実家にいる時間を減らすべきなんだとは思う。でもそうやって自分だけを優先したらきっとわたしはいつの日か後悔するだろう。どうしたら3匹がそれぞれの持つ時間を全うし、幸せな日々を送れるだろうか。どうすることが3匹と自分の関わり合いとして、満足のいくものにつながるだろうか。何をどうやっても後悔するならば、その後悔をできるだけ小さくするには何を優先すべきなんだろうか。
そんなことをたくさん考えた結果、わたしはできるかぎり実家にいる時間を増やす二拠点生活をやってみることにした。今自分が取り組んでいることのすべてを止めることもできたかもしれないけど、そこまでの勇気をわたしは持てなかった。結果的に中途半端と言えば中途半端だけど、自分の何かを「犠牲」にして献身的なケアをすることは、見てくれだけは美しいかもしれないが、どうしたって不満の原因になる、ということをわたしは親を見て学んだ。わたしは自分の何かを「犠牲」にして3匹との時間をつくるわけではなく、今できる形で、わたしはわたしの希望によってそうすると決めた。まだ二拠点生活を始めたばかりで、この先どうなるかはわからないけど、できるかぎりでやってみようと思う。実家にいるとほかの人間がいる分、精神的に負荷がかかることも多いが、それでも3匹との穏やかで愛おしい時間は何にも代え難い。

2ヶ月弱実家で過ごしそろそろ一旦離れるのだが、ある程度まとまった期間一緒にいると、犬がみるみる元気を取り戻しているのがわかる。この「元気」は、若い頃のそれとは異なるけど、目に翳りのあった一時とは大違いだ。毎朝わたしが起きてくるのを待ってウロウロし始め、散歩となれば一通り喜びの舞を披露し、家の敷地を出た瞬間猛ダッシュで飛び出していく。近所で地域猫を見れば尻尾をふり、歩きながら呼びかけると耳をこちらに傾ける。家に戻ると猫が出迎え、犬に擦り寄っていく。1日に少量だけあげることにしているおやつの袋を見せると尻尾をぶんぶん振って走ってきて、「早くくれ」とそわそわする。散歩の時に羽織っていた服を脱がせブラッシングをすると、黙って「そこそこ」と体を突き出してくる。夕方の散歩の後、食事をとるともうベッドに横になってしまうが、人間の夕飯後、様子を見にいくと真ん丸の瞳でこちらを見て、頭を撫でられるのを気持ちよさそうにしている。日々、この繰り返しだ。変わり映えのなく、何のイベントもないが、そういう平坦で穏やかな日常こそが大切だ。この日々ができるだけ長く続くよう、わたしはわたしのできることを毎日やっていこうと思う(犬へのケアだけでなく、政治に対する小さな抵抗の積み重ねも含め)。たくさんの幸福な瞬間が犬にも、猫にも降り注ぎますように。
